ファミリービジネスによくある親子(母子)間の課題と、取り組み

今回は、ファミリービジネス(FB)の、親子関係によくある課題を取りあげます。成功しているFBで育つ子どもは、親~特に母親~の「従順な良い子」である場合が、少なくありません。母親は、子どもの進学先に決定権を持っていたり、就職先、つき合う友だちや恋人、結婚相手について、過剰に口出ししたりすることも稀(まれ)ではありません。良い子は、そんな母親の「期待」を壊さない/裏切らないように、と小さい時からがんばって生きています。

経済的に繁栄するFBでは、父母だけでなく、祖父母も世間体を気にし、世間に後ろ指をされないように、どこか緊張して生活しています。そんな姿を見て育つ子どもも、世間に恥ずかしくないようにふるまうことを、いつの間にか身につけています。

そんな良い子ですが、思春期になると反抗し始めたりします。勉強や部活に精を出さなくなる。部屋にこもってゲームばかりしたり、良くない友人や知り合いとの交流を始める。隠れて万引きしたり、過食嘔吐したり、・・・する。

困った親が、子どもを外国の学校に進学させて、問題を隠蔽しようとする、ということをしたりします。

そして、成人になって就職に難儀する子どもを見ていられず、安易に自社に入れる。が、子どもは力を発揮しない、まともに働かず困った、という相談は絶えません。

どうしてこんなことになってしまうのでしょうか?良い子だった、勉強のできた子どもが大人になるのを楽しみにしていたのに、なぜ、「能力」や「可能性」を発揮しないのでしょうか?

精神分析医のハリースタック・サリバンは、人や心の内面を、「良い子/良い私(good-me)」「悪い子/悪い私(bad-me)」「私でない私(not-me)」の3つから、考えました。

サリバンによると、”good-me”は、それ単体で成立するのでなく、”good-mother(良い母親)”との「関係」を通じて生まれ、育まれます。同様に、”bad-me”は、”bad-mother(悪い母親)”との「交流」の中から登場し、作られます。母親は、子どもの「鏡」ですので、親(の隠された本音)との「関係」から、子どもは、good-meあるいはbad-meの子に成っていきます。

(注、ここでいう「母親」は、実際の母親だけでなく、子どもにとって「母親役割」を担った、重要な世話役を指します)

問題を抱えている子どもには、ほぼ確実に『過剰適応』のテーマがあります。たとえば良い子は、親の期待に「過剰」に応えようとし、従順で完璧な良い子になろうとします。

それが行き詰まって、時にわずらうのが、良い子に多い「摂食障害」だったりします。摂食障害は「依存症」の1つですが、アルコール依存も、ギャンブル依存も、セックス依存も、買い物依存も、ゲーム依存も、スマホ依存も、〇〇依存も、みな、その背景には、「過剰適応」と「過剰に良い子/良い人」のテーマがあります。

もし、あなたの周りに何らかの「依存症」で苦しんでいる人がいたら、その人は、過剰に/異常に、良い子/良い人(だったの)ではないでしょうか?「こんなに良い子/良い人が、何でギャンブル依存にはまっているのか、わからない。裏切られた」というケースが、よくあります。

さて、良い子/良い人が過ぎると、心が煮詰まりガマンができなくなって、早晩、悪い子/悪い人になる(反転する)、ということがよく起きます。思春期であれば、良くない友人や知人(不良)とつるみ出したり、中年期であれば、不倫に走ったりして、にっちもさっちもいかなくなり、心理相談に来る、といったことがままあります。

が、ここでの注意点は、そのbad-meが、good-meと『同様』「過剰適応」から生まれている点です。たとえば、不良(ヤンキー)とつきあうbad-meの少年/少女は、不良グループに「忠誠」を誓い、そこに「過剰適応」していたりします。不良グループという「一種の(ヤンキー)世間」の顔色をうかがい、その仲間たちに嫌われないよう、省(はぶ)かれないように、必死だったりします。

悪い子/悪い私になることは、良い子/良い私と、表裏一体です。良い子/良い私も、悪い子/悪い私も、どちらも『過剰適応』の一亜型(サブタイプ)に過ぎません。良い子/良い私も、悪い子/悪い私も、『同調圧力』の中にいます。

では、過剰適応の問題点は、何でしょうか?

それは、「私(に芯)がないこと」「自分軸の欠如」です。同調圧力への過剰適応をやめ、そこから解放され、自由にならないかぎり、「私/主体性」作りは、かないません。「私/主体性」のない人生は、心理学的には、残念な人生です。

過剰適応する良い子は、自分ではなく、親(ママ)の顔色、機嫌、気分を、過剰適応の良い私は、世間体を気にします。その時、良い子/良い人の注意、関心、エネルギーは、自分自身にではなく、親や世間という「(自分の)外側」にばかり向かうことになります。そうしたことを、何年も、何十年も繰り返すうちに、自分軸はすっかり「無く」なります。真の自分に向うエネルギーはありません。自分の人生(の内実)は、空っぽです。

親や世間に評価され、高い承認を得ている良い子/良い人が、心が空虚で、さみしく、満たされず、生きにくい、生きづらい、といった訴えを、セラピーで、よく耳にします。

では、どうするといいのでしょうか?

親や世間に評価され、高い承認を得ることからもたらされる「麻薬(ドラッグ)」のような「甘い」陶酔感、快楽、有頂天、興奮、酔いから、醒めて、解放され、自由になることです。

自分軸を創造し、「私/自分中心」になることです。「私/自分中心」は、「エゴイズム(自己中心性)」や「ナルシシズム(自己愛障害)」とは、質(クオリティ)が異なります。その鍵が、”not-me(私でない私)”へのまなざしです。

「私でない私」は、過剰適応するgood-meの「外部」にある私です。それはまた、 負の集団~たとえばヤンキー・グループ~へ過剰適応するbad-meの「外部」の私です。真の自分、自分軸作りのために、セラピーでは、良い子/良い人にもならない、また、悪い子/悪い人にもならないところ、同調圧力の「外部」に出るところから、着手します。

その私は、親や世間の「期待」に巻き込まれたり、呑み込まれたりして「去勢」されていない、いわば「野生の自分」です。「力/能力/可能性」を、秘めた私です。それは、「私らしい素面(しらふ)の、等身大の私」です。心理学的には、「素面で、身の丈に合った私」が、真の、またサステイナブルな可能性や能力を秘めています。それは背伸びしてイケているふりをした「良い子/良い人」ではありません。あるいは「悪い子/悪い人」を気取った自分でもありません。過剰な無理、気取り、装いがないので、永続する(サステイナブルな)私です。内実/中身のある自分です。

セラピーでは、クライエントが、この「私でない私」=「野生の自分」と触れ、関係を育み、統合することを志します。「私でない私」は、クリエイティビティ(創造性)やイノベイティブな可能性、アニマル・スピリットをふんだんに持った私です。セラピーでは、また「私でない私」=「野生の自分」が、ファミリービジネスで活かされ、生きる工夫についても、支援していきます。

あなたは、「素面で等身大の、野性味を秘めたサステイナブルな私でない私」に、ご関心がありますか?それは、同調圧力に弱い従順な良い子や過剰適応する良い人が、苦しみと取り組むうえでの、核心的テーマです。

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