「関係に根づいた個の確立」と、確立された個の「縁起への移植」
なぜ「青春時代」は、キラキラと輝かなければならないのでしょうか?どうして、大人になったら「立身出世」し、「故郷に錦を飾り」、「末は博士か大臣」にならないといけないのでしょう?「世間」に生きているからです。キラキラした輝き、立身出世という「世間」の「理想」を生きるように、「期待」「強要」されている点に、無自覚だからです。あなたは、青春時代に戻れるとしたら、キラキラ輝きたいですか? 博士か大臣になって、故郷(=世間)に錦を飾りたいですか?それは、昭和の「定型の大きな物語」です。あなたはそれとは別の、あなた「個人」にフィットした生き方、人生の物語、他の選択肢に関心がありますか?
世間学の阿部謹也氏は、「世間」の特徴は、そこに「個人」がいないこと、一方「社会」は、「個人」から成る点を、私たちに教えました。世間にも「身体を持った個体」としての人間はいます。しかし、「西欧的個人」はいません。「世間」に生きる人は、「世間の理想や期待や要求」に応えるべく、ピンボールのように脊髄反射します。世間の理想、期待、要求を、「自分」の理想、期待、要求と、勘違いし思い込んでいます。しかし、この「自分」は、「個体」ではあっても、「個人」ではありません。
西洋的個人は、阿部氏によると、「内面性(interiority)」を持っています。内面性とは、自分の「内側」を検索する、振り返る(reflection)「内的空間」をいいます。「私は今、何を、どう考えているのだろ?」「どうして、こんなふうに感じているんだろう?」「こんなふうに、物事を経験している私は、何者なんだろう?」などと、自己省察、内省、内観する場所です。この時、意識の注意は、「内側」に向いています。
それに対して、内面性のない私~すなわち、「世間」に埋もれている人間~は、「目の前の人は怒っていないだろうか?」と、相手の「顔色」を伺い、脅えます。人や場の「気分」や「機嫌」や「空気」に敏感です。「人に、嫌な思いをさせていないか、悪く思われていないか、後ろ指を指されていないか」と気にかけます。ビクビク、ドキドキ、ハラハラしています。この時の目線、意識は『外向き、外側』にあって、「内面、内側」にはありません。周りや相手や外を、キョロキョロと盗み見したり、見渡します。注意は、「内や中」でなく、「外、横方向に」にあります。
阿部氏によると、内面性の端緒は、ヨーロッパ中世における、カトリック教徒の神に向かって告白する、「告解」にあります。カトリック教徒は、告解の過程で、自分の「内面」を見る(reflect)トレーニングを、そうとは気づかず実践していました。当時のヨーロッパにいた、圧倒的多数のカトリック教徒の「内省、内観(reflection)」が、「内面性」の確立を準備したのでしょう。
内省、内観は、物事の判断に「待った!」をかけます。物事について、自分の情緒、判断、反応について、「考えること」を、可能にします。一方、内面のない世間人は、物事や相手の顔色や機嫌に脊髄反射~一喜一憂~します。ここには、「熟考」の生まれる余地はありません。意識が、外に「流出、漏洩」します。そして疲弊します。緊張から解放された後に、「あ~疲れた!」、とため息をつきます。
内面性は、深層心理学の「心(psyche)」に該当します。内面性のない世間人には、深層心理学のいう「心」はありません。ユング心理学の河合俊雄氏は、神々や魂は、元々、人間の「外側」にいるものと考えられていたが、内面性ができて以来、「心の内面」に存在する契機が生まれた、と述べています。現代の深層心理学は、夢分析などを通じて、「内面」に、神々、魂、スピリチュアリティを見い出す支援を行います。
福沢諭吉の生きた江戸時代末期の日本には、 “society(社会)” も “individual(個人)” も存在しませんでした。あったのは「世間」とそこに埋没する「個体」としての人間でした。世間で生活した夏目漱石は、留学先のロンドンで、「西洋社会」と「個人」に触れ、カルチャーショックを経験します。カルチャーショックが、彼が精神を病んだ一因である、と言われています。にもかかわらず、漱石は、「西洋的個人」を大事にしました。
夏目漱石は、「個人」を確立し、「社会」で生きることは『寂しい』と述べています。それは、世間の「外側」に出ること、今までの人間関係を失うことだからです。しかし、この寂しさは、「社会的そして心理的」には、『健康な』情緒です。深層心理学の一流派の対象関係論は、「寂しさ」や「悲哀」を『健康である』ととらえます。なぜなら、寂しさや悲哀は、「自我確立」に伴って『必ず』浮上する気持ち、感情だからです。
寂しさや悲哀は、「世間人」には、辛(から)く、苦(にが)く、回避したい気持ちです。一方、「社会」における「個人」には、向き合って引き受けるべき健康な(大人の)情緒です。
ここで、ゲシュタルト・セラピー創始者フリッツ・パールズの詩から、「個人」のあり様について考えてみましょう。
「私は私のことをして、あなたはあなたのことをします。
私はあなたの『期待』に添うために、ここにいるのではありません。
あなたも、私の『期待』をかなえるために、ここにいるのではありません。
あなたはあなた、私は私です。
ご縁があって、あなたと私とが出会えたなら、それは素敵なこと。
でもそうでなければ、それはそれで仕方のないことです」
私はあなたの「期待」に応じ、あなたは私の「期待」に添うのを当然と考え、そのためにお互いに個人(自分)を殺す。こうした関係や集団からなるものが、『世間』です。それに対して、私はあなたの期待にこたえるのではなく、またあなたも私の期待をかなえるのではない、と考え、「私は私のことを、あなたはあなたのことするために、ここにいる」『個人』から成る集団が『社会』です。こうした「個人」の確立過程に参画し、支援するのが、心理セラピーです。それは、「世間人」からすると、耐えがたい寂しく、哀しい心的過程を含みます。
「個人」は、青春時代のキラキラした輝き、大人になっての立身出世という(凡庸な)「世間の期待、要求、理想」に脊髄反射しようとする衝動に「待った!」をかけます。そして、「私が私のことをする」また「あなたがあなたのことをする」とはどういうことだろう、と「内省、内観(reflection)」し、「熟考」します。そして、私「個人」の生き方を、主体的に考えます。この心的過程をサポートするのが、西洋の心理セラピーであり、それをベースにファミリーセラピーが生まれています。
戦後に生まれた人は、誰もが「個人」について知っています。教育のお陰です。しかし、その理解は、中途半端、生半可です。日本に暮らす多くの人は、「世間」に埋没している「個体」としての人間です。が、同時に、部分的に「個人」でもあります。こうした股裂き状態の中に、大抵の日本人、日本に暮らす人はいるのではないでしょうか?建前は「個人」そして「社会人」で、本音は「世間人」です。
私たちは、個人セラピー、夫婦・カップルセラピー、ファミリーセラピーを提供する際に、クライエントが、「個人」と「世間人」との両方についての理解を進め、選択肢を多く持てるように支援しています。この点が曖昧だったり、漠然としていたり、見極められていなかったりすると、良質なファミリービジネスの心理支援をすることは、できません。
先ほど、告解は、「神に向かった告白」と述べました。しかし、告白は、それだけにとどまりません。壁と小窓を挟んだ向こう側で傾聴していた「神父にむかった告白」でもあるからです。現代の関係療法は、「内面性」と「個人」とが確立されたのは、カトリック教徒と神父との「関係」があったからこそ、と考えます。
最新のセラピー(=関係療法)は、人は、自分一人で「内面性」を磨き、健康な「個」を確立することはできない、といいます。辛(から)く、苦(にが)い情緒に関しては、特にそうです。今、内省、内観の方法として、マインドフルネス瞑想が流行っています。しかし、アメリカでマインドフルネス瞑想を広めた第一人者のケン・ウイルバーやジャック・コーンフィールドは、瞑想とともに、セラピーを推奨しています。心に傷つき(トラウマ)のある場合には、セラピーは必須だといいます。人の告白を傾聴した神父の役割を担う、セラピストの存在(=関係性)が必要です。
「甘さ」をベースとした「世間」から出て、「個人」になる~あなたらしくなる~には、寂しさや悲哀という「辛い」健康な情緒体験を、何度も経なければなりません。これは「苦い」経験で、それを自分のものにするには、『意識的に』味わうことが求めらます。自分一人では、そうした情緒から巧妙に逃げてしまうため、他人~たとえばセラピスト~の支援が必要です。辛い、しかし健康な情緒を嘔吐したり唾棄したりせず、引き受けるには、「関係的サポート」が求められます。
哲学は、個の確立を、思考中心に、自分一人で行うもの、としてきました。一方、現代のセラピーは、個の確立を、思考だけでなく情緒に着目し、間主観性(関係)の中で進める過程、と考えています。それは、(セラピストークライエント)『関係に根差した』個人の確立の支援です。関係性に根づき、寂しさや悲哀に開かれた「個人」は、丈夫さと、柔軟さと、心痛を経たやさしさを持っていることでしょう。
さてあなたは、大乗仏教の「縁起(えんぎ)」について聞いたことがありますか?それは、私たちが「エコロジカルな無数の関係(ご縁)の網の目の一側面」である、とする教えです。私たちのセラピーでは、関係性に根づいて確立された「個人」を、エコロジカルな無数の関係(ご縁)の網の目(=縁起)に、移植することを試みています。これがいい形で進むと、「個人」は寂しさや哀しみと共に、「安心」「結びつき」「温かさ」「豊かさ」「満ち足りた感じ」を経験します。こうしたことを意図して、個人セラピー、夫婦・カップルセラピー、ファミリーセラピーを実践しています。
Author Profile
ファミリー・ビジネスを持続・永続的に行うには、経営コンサルティングや税務アドバイスのような「ハード・スキル」と、ファミリー・セラピー(家族療法)のような「ソフト・スキル」の3面からの統合的支援が求められます。私は、家族の「癒し」と「再建」のためのファミリー・セラピーと、家族の健全さの「維持」と「予防」と「発展」のためのファミリー・アドバイスを34年にわたり行ってきました。
また、ファミリー・ビジネスのオーナーや大企業のエグゼクティブに対するコーチングにも、たくさん携わらせていただいています。
現在は事業承継・相続や経営について学び、各専門家と協力・協働しながら、日々ファミリー・ビジネス・アドバイスを行っています。
ファミリーとビジネスの結びつきを背景から支援するファミリー・セラピーに、より一層励んでいきたいと考えています。
現在、ファミリービジネス支援センター(FBSC)共同代表、セブン・スプリングス株式会社メンバー、一般社団法人FBAA・ファミリービジネスアドバイザー資格認定証保持者(フェロー)。
著書『痛みと体の心理学』(新潮社)他、訳書アーノルド・ミンデル著『オープン・フォーラム』(春秋社)他多数。