「世間」と「社会」
~「世間」に乗っ取られてきた日本の家族~

あなたは、「世間学」という言葉をご存知ですか?

この学問は、日本の家族を支援するうえで必須だと考えます。

世間学は、一橋大学元学長で日本を代表する社会学者の故・阿部謹也氏によって提唱されました。
彼はドイツ中世について研究したのち、自分が長年専門としてきた「社会」は日本にはなかった、とラディカルな提言を行いました。

社会学の前提としている「社会」とは何なんなのだろう?
日本に生活する人にとって、「社会」は手触り感のない抽象概念に過ぎないのではないだろうか?

彼は、そうした疑問をいだいたのです。

ところで、福沢諭吉は、英語の”society(ソサイエティ)”を、今では誰もが知っている「社会」と訳すことができませんでした。なぜでしょうか?

「社会」がなかったからです。江戸時代、日本に「社会」はありませんでした。
そのため”society”を、福沢は「人間交際」などと訳すしかなかったのです。

日本に暮らす多くの人にとって、「社会」は実感の伴わない、自分には関係のない抽象的なものとして経験されてきたのではないでしょうか?
あなたは、小学校から始まる「社会科」に、手触り感を持つことができましたか?

阿部氏は、日本で暮らす人々の〈生活世界〉は「社会」でなく『世間』である、と見抜きました。

そして、自分の知っている社会学の大御所学者の先生方も、「世間体」を気にし、「世間」にまみれて暮らしているのが実際ではないのか?
その学者先生たちは、「社会」というものがわかったうえで、社会や社会学について教えているのではない、のではないか?
世間的しがらみの中で学会運営などをしているのではないのか、と考えていきます。

そんな思索の中から生まれたのが「世間学」です。

それは、阿部氏が日々の暮らしに根差し、生活感のあるものを学問の対象にしようと考え
生まれた新しい領域です。

「世間」は「家族」と「社会」の中間領域であり、その2つのクッション的なものです。
日本では、大概の人は「社会」が何かよくわからないまま、「家族」と「世間」とに暮らしています。

ところで、有名な近江商人の「売り手良し、買い手良し、世間良し」の三方良しに出てくる「世間」。
自然災害のあった場合など、人と人が自発的に助け合うお互い様&おかげ様がふんだんに発揮される根拠に、「世間」(の良質さ、分厚さ)があります。

しかし、村の掟や空気に従わない「よそ者、若者、ばか者」を「村八分」にして切り捨て排除する(ヤバイ側面をもっている)のも世間です。
(注、葬式と火事が村二分に当たります。この二つに関しては、村八分から除外されます)

が、「よそ者、若者、ばか者」といった世間のしがらみから自由な者を、過疎化していく村の活性化の目玉としている地域が、現在、日本各地に増えています。

人口減少が止まない、経済がグローバル化された現代の日本で、経済合理性を追求するなら
「よそ者、若者、ばか者」を大事にしなければなりません。
「世間体」がどうのこうの、言っている暇はなくなっています。
そんなことを言っている間に、村や世間が消失してしまいます。

話を戻します。

なぜ、ここまで「世間」について話題にしてきたのでしょうか?

理由は、日本の「家族」の多くが「世間」と地続きであったり、「世間」と浸透し合っていたりするためです。地方に行けば行くほど、その傾向は現代でも強い。
「世間から後ろ指をさされないように」という意識は、今でも根深くはびこっています。
成功した地方のファミリービジネスにおいて、その意識は大変強い。
代々続く良質なファミリービジネスの家族~跡取り、その妻、婿養子、子どもたち~が、世間を怖がって内心ビクビクしているケースは、まれではありません。

「世間」が「家族」の中に、入り込んで(しまって)いるためです。
「世間」に「家族」が乗っ取られているためです。

私たちのところには、世間に対する恐れや不安を訴えるファミリービジネスの親御さん、そして子どもたちが、たくさん相談に来ます。

SNSという媒体が、それを煽っています。現代の若者や子どもは、SNSなしには暮らせません。SNSによって、世間が不気味な形で肥大化して、子どもたちやママ友グループなどの間で復活していることを、あなたはご存知ですか?

日本の社会を一皮むいたなら、そこは今でも世間まみれだったのです。

阿部氏によると、西洋近代に生まれた「社会」は、同じく西洋で生まれた「個人」から
なるものです。「個人」なしに、近代「社会」はありません。

一方、世間と親和性の高い日本の家族は、「個人」からなるものではありません。
日本の家族は世間と同様、「個人」のない、あるいは「個人」意識の希薄な「配慮、気づかい、忖度、甘え、期待、恩、負い目、忠義、しがらみ、空気」などからできている、はっきりとした形のない曖昧模糊なものです。
世間との境界線のはっきりとしていない、世間に入られやすい家族は少なくありません。

それに対して、欧米で生まれたファミリービジネス支援が推奨する家族療法は、すべて「個人」を前提としたセラピーです。
より正確に言うと、「健康な個人」育成と、その個人からなる「健康な家族」創りとをサポートするものです。
「個人」を土台としているので、そこで前提とされる『家族』は、近代「社会」的なものです。

家族療法は、「健全な家族」には「健全な個人」が欠かせないと考えます。

西洋からすると、日本の個人のない/希薄な家族は、世間と明確な境界線のない曖昧模糊としたものに映ります。
が、そのお陰で3・11やコロナで社会に暴動が起きない、といった利点があります。
それは、「社会」ではなく「世間」(の良さ、分厚さ)が機能しているからでしょう。

今後、日本でファミリービジネスがサステイナブル(永続)していくには、「個人」を尊重しないことは、あり得ないでしょう。

日本国憲法は「個人の尊厳」の確保を最大の目的としています。学校教育は「個人」を尊重するリベラルなものです。それは、うわべに過ぎず、一皮むくと世間まみれかもしれません。

しかし、「個人」を大事にしない/できないファミリービジネスには、今後、いい嫁、いい婿養子は参画しないでしょうし、子どもたちが跡継ぎを拒絶するでしょう。

世間と親和性のある日本的家族と、ファミリーセラピーの提唱する個人からなるファミリーとの「質的な違い」を見える化する。

私たちはそのうえで、それぞれのファミリービジネスに相応しい家族の在り方を、クライエント・ファミリーとよく相談し、サポートするように努めています。

ファミリービジネス支援を行うにあたって、参考にしていただければと思います。

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