ファミリービジネスに求められるコンプライアンス経営

ここ数年、官民問わず多くの不祥事がみられ、政治・企業への不信感が増したことで、日本の社会全体に対する信頼性が大きく損なわれています。

本稿では、なぜ不祥事は起こるのか、その原因をコンプライアンスの基本理論ならびに社会的な環境変化要因の視点から考察し、ファミリー企業が永続する為には、今何が求められ、今後どうあるべきか、ファミリービジネスにおけるコンプライアンス活動の在り方を模索してみました。

コンプライアンス経営への目覚め

初めに、過去に遡り米国のエンロン事件(2001年不祥事発覚)を契機として日本に本格的に上陸した”コンプライアンス”の本来の意味合いを確認して見てみよう。

エンロン社は、創業1985年~崩壊する2001年迄、総合エネルギー取引とITビジネスを営む社員数21,000名の全米でも有数の大企業であった。

破たんの原因は、多額の献金等の政界との癒着、インサイダー取引・粉飾決算であり、損失隠しが内部告発されたことから発覚した。

破たん当時の負債は1000億ドルを超えていた。

これを機に、内部統制、コーポレートガバナンス論が重視され、政府は、罰則規定の米国連邦量刑ガイドラインを改正し、違反行為の悪質さにより80倍の格差の罰金を定めた。

2002年には米国企業改革法(サーべンス・オクスレー法:通称SOX法)が施行され、企業情報の公開、監査制度、企業統治の強化が義務化され、コンプライアンスが制度化された。

この動きを受けて日本では、2006年に会社法、2007年日本版のSOX法(金融商品取引法)が施行し、国内企業におけるコーポレートガバナンス、内部統制への制度化が始まり、企業価値を損なう行為の撲滅や財務報告の正確性等により投資家の利益保護を目的とした整備が図られた。

企業はコンプライアンス経営の在り方そのものが問われるようになった。

このようにコンプライアンスは、企業に対し「法令を遵守させる」から投資家の利益を守るといった民主主義が優先される絶対的な価値観のための「公正・公平な法律・ルール作りと遵守」が求められる時代へと転化してきた。

コンプライアンス経営の在り方

コンプライアンスとは何か、一般的にはComplianceの動詞 Comply with ~に従う、との意味もあるが、その一方で工学用語では 柔軟さ、やわらかさと言う意味合いがある。

日本でのコンプライアンスの歴史を見てみると、皆さんも小学校の入口や校庭に二宮金次郎(正確には尊徳(たかのり))の像が置かれていたことに記憶にあるだろう。

二宮金次郎の出身地である小田原にある報徳二宮神社の尊徳像には「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」という言葉が刻まれている。

あくまでも企業経営は、経済(利益)なき道徳は現実的でなく無意味であり、道徳を無視した経済活動は不祥事につながる罪悪である。と言う意味である。

また、渋沢栄一も「倫理と利益の両立」を謳い、企業の経済活動は企業倫理とのバランスが必要であり、両輪を一体化させなければ意味をなさない。と説いている。

このように日本では200年以前から、コンプライアンス・倫理と経済活動の両立の必要性が既に問われていた。

一方米国では、2011年にはマイケルポーター教授が”社会価値と経済価値の同時実現”「共通価値の創造」の必要性(CSV:Creating Shared Valur)を提唱し、企業と社会の両方に価値を生み出す企業活動、競争力と社会課題解決の両立が不可欠と言った次世代の経営戦略論を発表した。

経済学者のPFドラッカーは、自らが「どのような貢献ができるか」を自問すること貢献は「組織の中に成果は存在しない。すべての成果は外にある」本質を欠く経営者は株主を含む全ての利害関係者に対して責任を持っていることを理解していない。と力説している。

これらからここ最近の不祥事の原因の多くは、経営の柔軟性に欠け判断基準のバランスを無視した結果ではないか。と推察される。

すなわち、コンプライアンス経営は、企業は常に良心がある企業倫理を経営の根幹に持ち、責任ある健全な経済活動ができる仕組みを確立することから始まり、社会からの要請に応えられる理念・目標の実現に向けて、企業統治への改革、適正な利益への追求、全ての従業員を巻き込んだ企業価値への創造・展開等が永続的に継続することである。

これが理想とする企業のコンプライアンス活動のあるべき姿ではないだろうか。

ファミリービジネスに不可欠な企業倫理

それでは倫理とは何か、大辞泉では、人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「倫理にもとる行為」「倫理観」と説明されている。

コンプライアンスは法律等のように人が作り出したものが主体となるが、倫理は人が共存するために存在する普遍的な規準、真理を追求した判断力であり、人に宿る心が主体となる。と考えられる。

飛鳥時代の聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉に、「和を以て貴しと為す」(わをもってとうとしとなす)とある。

ここで言う「和」の精神とは、体裁だけ取り繕ったものではなく、自分にも人にも正直に、不満があればお互いにそれをぶつけ合い、理解し合うということが本質である。

何事をやるにも、人々がお互いに仲良く、調和していくことが最も大事なことであるという教えである。

つまり、あなたの言い分もわかるが、相手の言い分にも聞き耳を立ててみてはどうか。お互いに認め合う気持ちを持ち、正しいところは正しい、間違いは間違いだと素直に認められるような議論をするべきだ。

対話を避けるのではなく、対話が無いと何も始まらない。相手とぶつかることで「和」をもつ考えを説いている。

このように飛鳥時代から「真理」は「対話」を繰り返すことで道は開けると言う倫理的思考が日本の相互信頼社会を築き上げてきた土台となっていることは否定できないだろう。

この和の精神の日本の倫理的思想は、理性的な部分と感情的な部分が生じるファミリービジネスにおいて、

(1)後継者と創業者の確執、

(2)家族の関係、

(3)経営幹部や全従業員との意思疎通、

(4)後継者育成などの事業承継(経営承継時)シーンを含み

未来のファミリー経営の課題を解決する為にも不可欠であり、弛まず真摯に取り組むべき課題ではないかと思う。

ファミリー企業の経営者は、単に法律を守るというだけではなく、時代の潮流・変化において何が正しいのか、何が真理なのか、自分の下した判断は間違っていないのか、常に自身に問いかけ、自分を厳しく律する、心や気持ち(倫理観)を持ち続けることが何より大切ではないだろうか。

Top