資格認定プログラムを受講して 私の変化

今でも鮮明に覚えている。
2018年3月27日、知人に事業承継について相談にお伺いした。その時突然FBAAと言うものの紹介を受けた。ファミリービジネス??私の一番嫌いな言葉であった。

「君にはモノ足りないと思うが」と一言。すぐさま知人は事務局長に電話連絡を入れ、その3日後局長と面談になるも、既に今季の申し込みは終了していたが、無理にお願いして何も理解しないままDay1(講義初日)に突入してしまった。

Day2が終わった時「しまった。場違いの所に来てしまった。」が本心であった。

私は地元の公立高校に入るも、勉強もろくにせず、野球に没頭し奇跡的にも第61回夏の甲子園に出場した。父が創業した会社と共に育った為、会社を継ぐのは当然との思いで就職活動もせず、卒業後はアメリカへ渡り経営学を学んだ。

帰国後父の会社の総務経理に配属となるも事務仕事にやりがいが持てず3カ月で退職希望を申し出る。すると父は「資本金を出すからあの会社を買収してこい。」と私に課題を呈したのであった。

26歳の若さで、この時代まだ珍しいM&Aを試み、若くして社長となる。買収直後、社員が反旗を振るい半数退職。人はいないが仕事は増える、M&A後の心得も理解していない中人生最大の苦労と苦痛を味わった。

この経験から経理、総務、製造、生産計画、見積もり、資金繰り、そして精神力等々全ての事業経営をOJTでマスター出来たことは現在の宝となっている。

その後、父の発病にて本社に戻り旗を振ることになった。父の回復後、私は東京に拠点を設け営業に走った。受注拡大の結果過去最高の売り上げ実績を挙げた。しかしここで父との衝突が起きる。

「お前はどこから給与を取っているんだ」と。実績を挙げているのに、何を言っているのか?父は更に「なぜ外注に仕事を出すんだ、内製化しろ」と。操業度100%以上で保有工数・設備不足で外注対策したことを最後まで認めてもらえなかった(第1回目の騒動)。

自己資本率も上がり株価算出してみると何倍にもなっていた。父に「株対策はどうするの?」と説明するも「そんなに株が欲しいのか」と叱責され、この様な考えの父と仕事をする事を断念する決断を下した。

しかし、ただで去るのも悔しく、投資育成会社へ44%の増資をお願いし株価評価額を下げた。そして父に相談することなく、相続税の無い泰国で工場を設立し9年間駐在した。

泰赴任10年目を迎えたとき、業績改善の要請を受け本社に復帰。その際父に散逸した本社の株式の集結を条件としたが、思いの外快く対応してくれ、株は同族と育成のみとスッキリとした状態となる。この頃から父と私の間に理解が深まり、毎年株を贈与していき、逝去するときにはほぼ相続対策は終了していた。

2007年に世代交代し、私は事業戦略書作成を始め、過去10年のP/L・B/Sをまとめ、2026年までのP/L・B/S計算書を作成、社内幹部に数値管理を徹底教育した。

2013年には長期事業計画には反して売上高の30%にも値する受注を辞退した。社員に対しては限界利益の仕組みをしっかり説明し、以前の限界利益率22%を38%まで上げ、売上減に対し利益率を向上しBS総資産を減らせる方針をだした。

ここまでは、良いイメージに聞こえるが、私は幼い時から、自分がオーナー経営者の息子である事を出来るだけ面に出さない様にしていた。「お坊ちゃま」「優雅でいいよな」という周りの声に、同族企業である事に誇りがもてなく、逆に恥ずかしい思いであった。

また、大学で習った経営学論においても、企業の健全な発展形態は、先ず創業者一族が献身的に働き、事業拡大すると専門経営者に経営をゆだね、株式を上場し創業者は事業から手を引くという形が理想であると教わってきた。

また妻との結婚条件に、「子供には自由に好きな事をさせ、好きな道に進ませる」とした。これが美徳と思っていた。子供には私と同じ苦労をさせたくない。会社は絶対に継がせないという教育方針の基今日まで来ている。長男はその教えを守り公立教員になり、次男は法学部を卒業し金融関係の職に付いた。

こんな背景にて私は事業承継の方向性をFBAAにて学ぶ決意をした。

スクリーング(講義)中、ファミリービジネスには最後までポジティブな気持ちにする事が出来なく認定証授与式を迎え、その後も気持ちが大きく変わることは無かった。FBAAとは、企業業績が良く、将来安定成長企業の承継者が受講対象かとも感じていた。

しかし、卒業から4ケ月後にある金融機関からFBAAについての講演依頼があった。良く考えると、人様にFBについて話しをできるノウハウはまだ身についておらず、理事長西川様に助け舟を勝手に出させて頂き、自身も再度FBAAについて学びなおした。受講中はケースペーパーを仕上げる事が主の目的となっていたと反省をするばかりである。

再度FBAA事務局長出版「同族経営はなぜ3代でつぶれるのか」を読み直してみた。今までスクーリングで学んだことが更に理解でき、これが、考え方・気持ちが180度変わる自分に成った事を自身でも驚いている。

なぜか父親の考えていた事・気持ちが沁みるほど感じられ、今まで絶対に許せなかった二言「誰から給与を貰っているんだ」「株がそんなに欲しいのか」の理由を謙虚に受け止めることが出来た。

父親というのは一言足りないものだ。その足りない一言を付け加えるのは息子の仕事である。と感じた。この年齢になり、私を大変身させ、勇気と長戦力が湧き、積極的な事業活動を進められるようになり、「継ぎたい会社にしたい」ではなく「継がしたくなる会社にしたい」の思いを持ち始めた。

FBAAを受講してからの私の変化は、社員に向けて現れた。社員を幸せにする活動を実施し始めた

  1. 会社は誰のもの
    ⇒「社員とその家族のもの」
  2. 企業理念の確立・浸透
    ⇒父が作成した理念に説明文を追加し弊社社歌とも連動していることを発見し全社員に小冊子を作成し配布し、浸透させる活動を始めた。
  3. 会社が目指している事の明確化
    ⇒我社で働くことで得られる喜びを提供する事にある
  4. 社員が幸せに働ける為の活動を強化
    →新年安全祈願・成人のお祝い・還暦のお祝い・全社員で入社式・初任給授与式・社是、    社訓・Mission・ Visionの変更

次に、事業承継の方向性について

1、亡き父を心の底から尊敬するようになった。

*オヤジは成功の為の試練を息子に与えたのだと思えるようになる。
*オヤジとムスコは見ている世界が違う。「心の地図」が全く違う。意見が合わなくて当然
*対決の時代には、しっかりと対決する事が必要。喧嘩もコミュニケーションの一つ

自然と父から英才教育を受けていた事、ジェノグラム作成で創業当時から発展してきたのは同族が支えていたことを理解。なぜ父と喧嘩したのか今になって理解できた
⇒喧嘩したのは私の理解の無さと謙虚さの無さ・父の息子に対しての嫉妬

FB企業事業承継の始まりは、まず息子の謙虚さが事業承継のスタートではないだろうか。

2、同族経営が恥ずかしいと思っていたが、ファミリービジネスであることに自信を持つことができた。

3、私と同じ苦労を子供にさせたくない、会社を売却して早く楽になりたいとの想いから、会社の組織(頼れる部下がいる)があるから自分は仕事が出来ていると再認識

4、子供に会社経営について聞いてみると「興味あるに決まっているだろう」驚きと嬉しさ

5、次男に会社見学をさせ、会社戦略を説明。「感動したよお父さん。凄い工場だね。町工場と思ってたよ。」

6、3円モデル(スリーサークルモデル)を元に、妻と事業承継の話を始めた。妻が話を聴いてくれるようになった。

7、妻も会社を見学に来た。妻いわく「馬鹿と思っていたが、少し尊敬したよ」と。

8、三位一体事業承継計画書を再度作成し直し、本年2月から二人の息子に株贈与を始めた。株の仕組みを説明すると、興味深く聞き入っていた。株集中型から分散型へ行くことを決定。株主協定も作り、49%は種類株とした。

この様に、6期を卒業して半年、自分の変化に驚いています。これもFBAAご指導のおかげであると関係者様に感謝しております。

これからは、三位一体計画に沿い活動をして行く一方、更なるFBAAの学びを続け、私の様な、製造業の後継者様に少しでもお役に立てることが出来れば幸いです。

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