イーカロスの墜落(林原グループの栄光と転落)

突然の倒産劇

それは突然に、あまりに突然の倒産劇であった。2011年2月2日の出来事だった。その悲劇の主人公は、「林原」。

未上場企業ながら超優良企業と世間でも評判の同族会社であり、産業界でもいろいろな経済誌などから高い評価を受けていた。因みに、我が郷里岡山の数少ない老舗の名門企業でもあった。

1970年:林原生物化学研究所を設立し、研究開発型の企業となる。

1975年:マルトース、マルチトール、プルランの開発

1979年:インターフェロン量産技術を確立

1991年:林原美術館設立などで第一回メセナ大賞を受賞

1995年:夢の甘味料・天然糖質トレハロース開発に成功

2000年:穀物商社カーギル社(米)とトレハロースの海外販売の基本合意

2003年:代表取締役:林原健氏が日経新聞「私の履歴書」を連載

倒産までは、世界的な食品素材・生化学企業の地位にあり、これだけの輝かしい歴史と技術をもった有力企業がなぜ?

林原グループ

林原グループの中核三社(株式会社林原、株式会社林原生物化学研究所、株式会社林原商事)が会社更生法の適用申請し、林原一族は経営から退き倒産した。翌2012年3月に化学専門商社の長瀬産業が林原を完全小会社とし、更正手続きは終結した。現在も、法人として林原の名前は残っているが。

同族企業の永続性を探求している当協会FBAAの一員として、その倒産の原因を紐解いてみたい。

林原家は、1632年(寛永9年)から 岡山で米を扱う御用商人として活躍し、 1883年(明治16年)に初代林原克太郎氏が林原商店を創業し、 水飴製造を始めたのが林原の原点。 三代目の林原一郎氏が戦後に林原を大きく飛躍させ 林原グループの基礎を創りましたが、52歳で急死し、 長男の林原健氏に四代目としてバトンが渡されました。 この時、健氏はまだ慶応大学の19歳であった。

今回の倒産まで、健氏は50年間の社長在任中に、上記のように画期的な新製品を世に出し、国際的企業として高い評価を受けていたが、その間、莫大な研究開発費などを賄うために、数多くの金融機関からの巨額の借入れを続けていた。 その巨額な資金調達のために、粉飾決算を重ねていたのです。

倒産時の状況などは、つぎのとおりだった。

・ グループの年間売上:約800億円

・ グループ会社は12法人、従業員1,000人以上

・ グループの借入総額:約1,300億円(金融機関28行が積極融資)

※内訳は、メイン中国銀行(地銀)から借入金:約450億円、10%程度の中国銀行株式を保有。サブの住友信託銀行から借入金:約300億円

・ グループ本社の林原は債務超過ながら、単年度黒字の状態

倒産の遠因を探ると、下記のものが挙げられる。

経営とオーナーシップ

・ 会社法上は大会社(資本金5億円以上or負債200億円以上)に規定されるも、その義務である「会計監査」が創業以来まったくなされなかった(違法) ・ 最低のコーポレートガバナンスである株主総会(林原家とその関連会社で100%株式を保有)および取締役会の実際の開催は一切なされなかった(違法)

・ 監査役はずっと同族(倒産時は健氏の三男)で、社外取締役はいない

・ 代表取締役社長(健氏、長男)は、研究開発に没頭し経営内容には無関心

・ 専務の靖氏(No.2で健氏の弟、5歳下)が,研究開発以外の経営全般を社長から委託されて運営していた(グループ全社の印鑑管理も)

・ メインとサブの金融機関は土地担保主義により、経営実態を精査せず

・ 同族の資産管理会社(2社)へ林原などのグループ事業会社から資金流出

ファミリー

・ 長男絶対制(神格化)

・ 先代三代目社長の急死

・ 兄弟(長男・健社長と三男・靖専務)間の没交渉

・ 次期社長と期待していた健氏の次弟の早逝

・ 同族の弔事以外での会合、家族会議なし

倒産の3つの要因

この中から倒産を招いた3つの要因を挙げると、

  1. 経営トップの兄弟間のコミュニケーション不足と心的な確執
  2. コーポレートガバナンスの欠如(外部チェックなし)
  3. 金融機関の慢心と怠慢(金融当局の管理不足)

当初、極秘裏に私的整理の事業再生ADR(金融債権だけ、裁判外紛争解決)での再建を目指したが、28金融機関間の調整不調(メインとサブの追加担保設定などの抜駆け)やマスコミの素っ破抜き報道などで再建を断念し,法的整理の会社更生法申請を選択した。

最終的には、林原家の私財も投じて全ての企業債務の90%以上を返済したことは、企業倒産史においても前例のない異例の高水準であった。これだけの資産があったのであれば、再建の道筋は幾らでもあったと思う。 誠に残念であった。

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